蹉跌日記

OLの蹉跌

母の介護

寝たきりの母のベッドの横にはDIORのマキシマイザーが置かれている。動けない母の唇がやけに綺麗なのは父がそれを塗ってるからだろうか。

前に来た時より母の状況が悪くなっているのは明らかだった。一晩中呻き声をあげているし、呼吸をするのがやっとのような、激しい咳と嘔吐。なんなら時々呼吸が止まってる。目の瞳孔は開きっぱなしでどこも見ていないし、手を振っても反応は無い。前は時々頷いてくれたのにそれすらもなく、ここ一ヶ月で意識がさらに遠くなってしまったのを感じた。そろそろなのかなと思う。

母が病院から家に帰ってきて7ヶ月が経とうとしている。余命数週間と言われて帰ってきたが、これほど長く生きているのは父の献身的な介護と、支えてくれている地域医療の方々のおかげだ。

ケアマネージャーさんに「お父さんが『離れてしまったらこんなものか』と言っていましたよ。もっと帰ってきてあげてください。」と言われた。ずしっと刺さった。それはそう、その通りで、でも新入社員で忙しいんですよと思ったりもしたけど、それは本心じゃない。遊ぶ暇があるのに帰ってないのである。ごめんなさい。きっとみんな思ってる『親不孝な娘だな』と。

私はたぶんただ母が寝たきりなのをみたくないのである。夢に出てくる母がいつも元気なのでそれを信じていたいのである。そして母のオムツを替えたくない。胃ろうだってしたくない。それが最近まで私と恋バナをしていた、DIORの口紅が似合う綺麗でおしゃれな母と同じ人だと認めたくない。だから帰らないのである。なんでうちの母だけ。同世代の人のほとんどの母親は元気なのに。そんな悲劇のヒロイン的なことを考えて泣いて、そして母が可哀想だと思うだけで直視したがらないのである。そんな狡さは自分が一番よく分かっている。

父が私に直接「もっと帰ってこい」と言わないのはたぶんそんな私の気持ちを察してなんだろう。昨夜も母のオムツを替えるのを手伝おうとしたら父に「良いよ、見たくないだろ」と言われた。そんな事ないよと言いたかったけど図星だったので言葉が詰まった。

今朝、母の便がオムツから漏れてしまっていたのでシーツとパジャマをお風呂場ですすぎ、便を落としてから洗濯した。吐瀉物と便が混じった匂いがして少しうっとなり、なんで、とまた涙が出てきた。一回泣き始めると止まらなくてティッシュが一箱無くなるくらい泣いた。

帰り、家の外に出ると夜の7時をまわっているのに景色は明るくて、不思議に思っていると目の前に黒い虫がふよふよと飛んできた。友達に聞いた話だとこの虫は眼の涙に含まれるタンパク質を食べるために寄ってくるらしい。だいぶ気持ち悪いと思っていたが、なんだか今日は許せた。父が呼んだタクシーに乗って駅に向かった。今日は夏至だからこんなに明るかったのかと車の中で気がついた。

これから2時間かけて名古屋に帰る。

この2時間が私にとっては遠い。でもみんなは近いと思っているし、きっと実際そうなんだろうな。今後はもう少し、帰る。帰るかなあ…。

優しくなりたい。