蹉跌日記

OLの蹉跌

24.04.16

-運命的な惨めさをありふれた不幸に変える

いつかの夜、暗い夜道をひとりで歩きながら姉に電話した。仕事がつらいといったら、なにがつらいのと聞かれ「同期はみんな帰ってるのに私だけ今日も20:30すぎに帰ってるし、最近毎日こんなんだし、毎日毎日ごめんなさいって頭下げてるし、えとせとらえとせとら」と言ったら「そんなの!8時ならまだ飲みに行ける時間じゃない。むしろ早いじゃん」と言われ、えーと思ったがああ、でも、みんなこんなもんなんだ、と、ふとラクになったことがある。私だけじゃない、という感覚に救われた。常に、どこか、みんなと違うことにストレスを感じる。コンビニ人間の主人公よろしく他人から普通と見られないとやばいという焦りがある。カッコーの巣の上ででいったら私は収容されている側の人間だと思う。はっきりと生きづらい。

私がこんなに生きづらいのは、私の生まれ持った性格(ADHD傾向?)によるものなのか、なんなのかわからないけれど、どこか私は生きづらさを背負って生きていかなきゃいけない「運命」のようなものを感じているわけである。

そんなおり、昨日の夜なんともなしに流していたNHKフロイトの『夢判断』が特集されており、その中でえらそうな先生がこう言った。フロイトの考え方はその人の苦しみを取り除くことはできないが、「運命的な惨めさをありふれた不幸に変える」のだ。と。これは凄い言葉だなと思った。私が残業して仕事向いてない辛いにゃーきゃーとなっていたのは「私だけ」がそうだと思っていたからで、姉の言葉をうけてそれがありふれた不幸にかわり、なんだかちょっと楽になったわけである。他にも、べつに、私の遅刻癖とか、その他諸々だってADHDの特性と考えれば普遍的ではあるわけで、母の死だって別にネット上にはあふれかえっている。運命的だと思っていた悲しさとか辛さとか生きづらさとかそういうのを「運命」という重くある種崇高なものと考えるのではなくありふれた不幸に落とし込む事、それは心を軽くするための特効薬かもしれない。フロイトの話はたしかセクシュアリティについての話だったけれど、それ以外でも使えそうだし読んでみたら少し楽になるかな。

なんておもいつつ。でもそんな事は頭でわかってもたぶん生きづれーよなー。仕事やめたいよなー。だれかやしなってよー、わーんどらえもーん。と思った。

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